井伊直政は肥満体だったか
2013年 09月 24日
いきなりすごいタイトルですが…(武将隊の直政さんとは関係ない話なのでファンの方怒らないでね)
井伊直政は「猪首」であった、という文献があります。
『中古治乱記』に「…直政は唐の頭の甲総角付(かぶとあげまきつけ)まで掛りけるを猪首に着なし…」という文章があるのだそうです。
「猪首」。
誰でも字面で想像すると思いますが、私、これをずっと「いのししのように太い首」のことだと思ってたんです。
ファンになってから、かれこれ10年ばかりずっと。
…いや、他にも根拠はあるんですよ。
井伊直政研究の有名な先生の文章にも「直政はやや肥満気味だが頑丈な体格をしている」というくだりがあったし。
彦根城博物館で見た、関ヶ原当時着用とされる赤鎧もかなり大きいしおまけに頭が大きいし。
おまけに「直政の甲冑は頑丈で重かったが生傷が絶えなかった。」という有名なエピソードもあるし。
たしかに直政を「容顔美麗」だったという当時の人の記述はあるのですが、ほら、昔の美人って今と基準が違うっていうじゃないですか。博多人形みたいなぷくぷくしたのが美少年だったりするじゃないですか。
そういえばあの有名な肖像画も、二重あご…
だがしかし!今年になって新事実が!!
今年になって水野勝成関係の資料を調べていたら、水野勝成が語った「戦場での心得」などを書き記している書物(「宗休様御出語」)があり、その中に
「首ゆりすわり、猪首になる物(←原文ママ)あらばこの者必ず一番にかけ、槍を合わす者である。油断してはならない…」
という一文があったんです。
疑問に思って「猪首」を調べてみたら…なんと
猪首とは「かぶとを後ろ向きにずらしてかぶること(つまり今で言う「阿弥陀かぶり」)」
のことだったらしいとそこで初めて知ったのです。
つまり、兜をずらしてかぶる→しころが後ろにずれて、首が短く見える→猪首
という語源なのでした。
そして、この「猪首」は、敵の矢も刀も恐れない、勇ましいかぶり方なのだそうです…
理由は分かりませんが、たぶんそうすることで視界が開けるからでしょうか。それによって確かに攻撃はしやすくなるでしょうが、おでこや眉間がさらされるので大変危険なことだったのかもしれません。
つまり
「…直政は唐の頭の甲総角付(かぶとあげまきつけ)まで掛りけるを猪首に着なし…」
とは、死をも恐れぬ若武者の勇ましい姿をかっこよく歌いあげているのであって、決してポチャ系男子がかぶとを太い首の上にかぶっている意味ではないんです。
…ごめん、直政様……_| ̄|○
「猪首の意味も知らなかったんかい!」
と歴史好きの方にはおしかりを受けそうですが、いやはや思い込みとは恐ろしいものです…。
(><。)っ そんなわけで今日の一枚。
今日のネタとも少し関係があるのですが…
22日、「家康公検定」が終わったあと、小牧市で開催された「こまき信長まつり」に行ってきまして。
小牧山城を望む広場(信長公居館跡。現在は芝生の公園)で行われた葵武将隊のステージで、水野勝成さんが珍しい眼帯姿を披露。
(画像が悪くてごめんなさい)
これは小牧長久手の合戦の時に水野勝成が眼病を患っており、かぶとをつけないで出陣(視界を少しでも広く保とうとしたためか?)しようとしたところ、それを父の水野忠重が大変怒った…というエピソードにちなんだ、粋な演出です(ちなみに、その喧嘩がもとで勝成と父の仲は悪化、しまいには父の寵臣を勝成が斬ったことから勘当されてしまい、長い放浪生活を送ることになってしまうのです)。
水野勝成という名前すら知らない人ばかりなのに、何とマニアックなネタを…と驚きましたが、御本人の口上でも眼病のエピソードについて説明がありましたし、そのあと井伊さんからも丁寧な解説があったので、お客さんも納得してくださり、大変受けが良かったです(´∇`) 。
少なくともあの時ステージを見ていたお客さんには水野勝成という名前と、小牧長久手の戦いで眼病を患っていたというエピソードは強く記憶に刻みつけられたと思います。
もちろん、葵武将隊のステージ自体も大変気合いの入ったもので、他とは格の違いを見せつける素晴らしさでした。
…ええと、これを先ほどの「猪首」に強引につなげますと…
かぶとを阿弥陀にかぶっただけでも危険極まりないのに、ましてやかぶとをかぶらないで出陣するなど死にに行くようなものだったのでしょう。
水野忠重が怒るのももっともなことだったかもしれません(そこまでひどい眼病を患いながら戦に出ようとする勝成のガッツも見上げたものですが)。
ただ、父に叱られた勝成ですが、死ぬどころかこの戦いで一番首を取り、それを家康公の所へ持って行ってお褒めの言葉をもらい、さらに井伊直政とともに先駆けして黒母衣の兵を討ち取り、さらにもう一人も組み討ちで首を取った…という、すごい功名を立ててしまいましたので、以後も父親の言うことを聞くこともなかったわけで…。
そうそう、「こまき信長まつり」、他のグループもいろいろ見ましたが、印象深かったのは清州城の桜華組。
初めて見ましたが、評判通り、のびのびしていて、それぞれのキャラが本当にしっかり出ていて安定感がありました。やはりキャラが立っていると初心者にも分かりやすいですね。
井伊直政は「猪首」であった、という文献があります。
『中古治乱記』に「…直政は唐の頭の甲総角付(かぶとあげまきつけ)まで掛りけるを猪首に着なし…」という文章があるのだそうです。
「猪首」。
誰でも字面で想像すると思いますが、私、これをずっと「いのししのように太い首」のことだと思ってたんです。
ファンになってから、かれこれ10年ばかりずっと。
…いや、他にも根拠はあるんですよ。
井伊直政研究の有名な先生の文章にも「直政はやや肥満気味だが頑丈な体格をしている」というくだりがあったし。
彦根城博物館で見た、関ヶ原当時着用とされる赤鎧もかなり大きいしおまけに頭が大きいし。
おまけに「直政の甲冑は頑丈で重かったが生傷が絶えなかった。」という有名なエピソードもあるし。
たしかに直政を「容顔美麗」だったという当時の人の記述はあるのですが、ほら、昔の美人って今と基準が違うっていうじゃないですか。博多人形みたいなぷくぷくしたのが美少年だったりするじゃないですか。
そういえばあの有名な肖像画も、二重あご…
だがしかし!今年になって新事実が!!
今年になって水野勝成関係の資料を調べていたら、水野勝成が語った「戦場での心得」などを書き記している書物(「宗休様御出語」)があり、その中に
「首ゆりすわり、猪首になる物(←原文ママ)あらばこの者必ず一番にかけ、槍を合わす者である。油断してはならない…」
という一文があったんです。
疑問に思って「猪首」を調べてみたら…なんと
猪首とは「かぶとを後ろ向きにずらしてかぶること(つまり今で言う「阿弥陀かぶり」)」
のことだったらしいとそこで初めて知ったのです。
つまり、兜をずらしてかぶる→しころが後ろにずれて、首が短く見える→猪首
という語源なのでした。
そして、この「猪首」は、敵の矢も刀も恐れない、勇ましいかぶり方なのだそうです…
理由は分かりませんが、たぶんそうすることで視界が開けるからでしょうか。それによって確かに攻撃はしやすくなるでしょうが、おでこや眉間がさらされるので大変危険なことだったのかもしれません。
つまり
「…直政は唐の頭の甲総角付(かぶとあげまきつけ)まで掛りけるを猪首に着なし…」
とは、死をも恐れぬ若武者の勇ましい姿をかっこよく歌いあげているのであって、決してポチャ系男子がかぶとを太い首の上にかぶっている意味ではないんです。
…ごめん、直政様……_| ̄|○
「猪首の意味も知らなかったんかい!」
と歴史好きの方にはおしかりを受けそうですが、いやはや思い込みとは恐ろしいものです…。
(><。)っ そんなわけで今日の一枚。
今日のネタとも少し関係があるのですが…
22日、「家康公検定」が終わったあと、小牧市で開催された「こまき信長まつり」に行ってきまして。
小牧山城を望む広場(信長公居館跡。現在は芝生の公園)で行われた葵武将隊のステージで、水野勝成さんが珍しい眼帯姿を披露。
(画像が悪くてごめんなさい)
これは小牧長久手の合戦の時に水野勝成が眼病を患っており、かぶとをつけないで出陣(視界を少しでも広く保とうとしたためか?)しようとしたところ、それを父の水野忠重が大変怒った…というエピソードにちなんだ、粋な演出です(ちなみに、その喧嘩がもとで勝成と父の仲は悪化、しまいには父の寵臣を勝成が斬ったことから勘当されてしまい、長い放浪生活を送ることになってしまうのです)。
水野勝成という名前すら知らない人ばかりなのに、何とマニアックなネタを…と驚きましたが、御本人の口上でも眼病のエピソードについて説明がありましたし、そのあと井伊さんからも丁寧な解説があったので、お客さんも納得してくださり、大変受けが良かったです(´∇`) 。
少なくともあの時ステージを見ていたお客さんには水野勝成という名前と、小牧長久手の戦いで眼病を患っていたというエピソードは強く記憶に刻みつけられたと思います。
もちろん、葵武将隊のステージ自体も大変気合いの入ったもので、他とは格の違いを見せつける素晴らしさでした。
…ええと、これを先ほどの「猪首」に強引につなげますと…
かぶとを阿弥陀にかぶっただけでも危険極まりないのに、ましてやかぶとをかぶらないで出陣するなど死にに行くようなものだったのでしょう。
水野忠重が怒るのももっともなことだったかもしれません(そこまでひどい眼病を患いながら戦に出ようとする勝成のガッツも見上げたものですが)。
ただ、父に叱られた勝成ですが、死ぬどころかこの戦いで一番首を取り、それを家康公の所へ持って行ってお褒めの言葉をもらい、さらに井伊直政とともに先駆けして黒母衣の兵を討ち取り、さらにもう一人も組み討ちで首を取った…という、すごい功名を立ててしまいましたので、以後も父親の言うことを聞くこともなかったわけで…。
そうそう、「こまき信長まつり」、他のグループもいろいろ見ましたが、印象深かったのは清州城の桜華組。
初めて見ましたが、評判通り、のびのびしていて、それぞれのキャラが本当にしっかり出ていて安定感がありました。やはりキャラが立っていると初心者にも分かりやすいですね。
by mikabushi
| 2013-09-24 00:48
| 日記