すずき孔と申します。三河武士の史跡を巡っては感想とかツッコミとか書いてます。HP「三河武士にあいたい!」http://www7b.biglobe.ne.jp/~mikawabushi/


by mikabushi

カテゴリ:一日一服部( 8 )

鬼半蔵の槍・現代の鬼

新宿の西念寺にある服部半蔵正成所用の槍。
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未来の鬼?エヴァと日本刀展に出品されたエヴァ型の面頬
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同展に出品された、渚カヲル(ある意味一番怖い鬼)をイメージしたこしらえ。関市の展示会場で初出品。
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柄部分を拡大。三種類の鮫皮を貼り合わせて作ったもの。
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※追伸…今回は最近変えたi-phone5で投稿したんだけど、何に感動したかって「ふこうず」と打って「深溝」と一発変換されたこと!アップルちゃんはアメリカ出身なのに良く知ってるなあ!
昔は携帯の変換機能と言えばおバカなうえに学習機能もなく、「あしかがよしみつ」と打って「アシカがよしみつ」と変換され、プールでビーチボールを回している垂れ目オヤジを想像してしまったものだが、今やPCの方がずっと頭悪い…。
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by mikabushi | 2014-01-20 11:24 | 一日一服部

【小田原攻め】

たまたまツイッターでユニコーンの「男は服部」(←クリックすると歌詞が出ます)という歌を知ったのですが…(本当は世代的にユニコーン全盛期のはずなんだけどたぶん当時はさだまさしに夢中だった孔さんである)。
これなんで服部…?とかそういうことをつっこんじゃいけないんですねきっと。


さてそんな「おとこ服部」ですが、

蟹江城攻めのあとは、伊勢の薬王子砦の攻略で正成配下の伊賀衆が砦を陥落させています。
別に忍者としてではなく普通に攻め取ったらしいです。
このころの伊賀衆は忍びというよりその特技の一つである鉄砲の腕を買われて鉄砲隊として働いていたようです。



6年後の天正18年の小田原攻めでは沼津近くの三枚橋の町はずれで北条軍と戦いこれを打破ったそうです(これも一次資料を見つけてないので、すみません、本からの引用です)。


あと、小田原では正成にとって大変名誉なことがありました。

「寛諸譜」の記述によると
「天正18年、小田原の役の時、正成の使っている黒字に白く「五」の文字を染めた旗を、徳川軍のお使い番の指し物として採用したいと、本多正信を通じて家康から仰せがあり、正成はこれを献じた。」


そうなんです!時代劇などでよく見る徳川軍の「五」の字の旗指し物はもともと正成のものだったのです。

家康はこうすることでさりげなく(ただしお金も使わず)長年の正成の武功に報いたのでしょう。

使い番は若くて強い将来有望な武士がなるものだそうで、家康はこの旗に「正成の勇猛さにあやかれ」というメッセージを込めたのかもしれません。

やはり男は服部…。

…まあ、家康の事ですから
「シンプルで見分けやすいし、インク代も安くて済みそうだし、(武田軍の)ムカデの絵とかと違って誰でも書けるし。」
とか思って採用したのかもしれませんが…。

ああ、なんだか自分で言ってて実はそれっぽいような気がしてきてしまった!ごめん服部!
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by mikabushi | 2011-11-18 01:53 | 一日一服部

【蟹江城攻め】

 (´・ι ・`Σ\=\ …康政の顔文字はやはりこれにしようかな。
(´・。・`ξ\=\ (´・し・`Σ\=\  (- し-\=\ あたりも捨てがたいが。

しもぶくれのりんかくと大きなお鼻と小さな目、あとあのもみあげ(?)がチャームポイントやね…。
顔文字職人のみなさん、いいアイデアあったらよろしくお願いします(*´∀`)ノ。


ところで今日はそんな康政の顔文字とはあまり関係のない、前回の松ヶ島城攻めのすぐあとの蟹江城攻めです。


これは小牧長久手の戦いに関連して起きた戦で、
徳川・織田方の城である重要拠点・蟹江城の城主が
秀吉の調略によって豊臣方に寝返り
蟹江城が豊臣の城になってしまったため、
家康と信勝が蟹江城を攻め、これを奪還した合戦です。

以下、またも「改正三河後風土記」より。

この時は伊賀の忍びも大活躍したようです。

城に援軍に入ろうとする豊臣の3000余人が大船で海上から蟹江城に入ろうとするのを、徳川の忍び(伊賀者)がこのことを察知し、城下の酒屋に火を放って20件ばかり燃やして妨害。
またその煙を見た清州の家康が井伊直政を引き連れ急ぎ蟹江城へ行き、下船しようとした豊臣兵を直政は伊賀者たちとともに妨害・攻撃したりしました。

しかし激戦をかいくぐった大将滝川一益が城に入り、いよいよ城攻めが始まると、
蟹江城の大手門を酒井忠次が、東(車の丸)は(長沢)松平康忠、服部正成と伊賀組が、西は信勝勢、北方面は大須賀康高が攻め立てます。


…やがて、敵方の大将の滝川一益は降伏。
しかし、激選の中で正成の甥(次兄保正の息子)保成も銃創fがもとでなくなってしまったそうです。


この戦の話は「寛諸譜」正成伝もあるエピソード。
まじめに武将をやっている正成の話であります。


ちなみに正成と一緒に車の丸を守った長沢松平の松平康忠(正成より4つ下)は酒井忠次の奥さん(碓井姫)の前の旦那との子(忠次の義理の息子)。伊賀越えにも参加しているし、信康にも仕えているので、たぶん正成とは親しい間柄だったと思われます。
あまり有名ではありませんが、結構あちこちの戦で名前をみかける徳川の主力武将の一人です。
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by mikabushi | 2011-11-17 01:23 | 一日一服部

【松ヶ島城攻め】

伊賀越えがおわり、小牧長久手に突入しますが、「改正三河後風土記」にその時の戦の一つ、松ヶ島城攻めで正成が活躍した記事がありました。
ちなみに松ヶ島城では城を守っているのが日置大膳亮・滝川雄利・服部正成ら、攻めているのが羽柴秀長、織田信包、筒井順慶ら羽柴軍です。

「…徳川家の加勢服部半蔵は伊賀・甲賀の者ども100人に下知し、100人を5段に構え、筒先を揃え、玉継ぎ早く打つ鉄砲に、蟻のごとく寄せ付いている兵たちは見ているうちに3~40人撃ち殺される。
(中略)18日には日置大膳は服部半蔵と伊賀の士卒100人引き連れてまた付き出でて、敵を大勢打ち取って功名を挙げた。
(中略)羽柴軍は松ヶ島城は40日ほど取り囲んだが、日置たちは堅固に籠城して防いでいる。」


…結局、慶宝という尼僧の取りなしによって和議が成立し、城中も糧食が少なくなってきたので応じることとなった。が…

「(日置や半蔵らが相談した結果)陸より立ち退くのは見苦しいだろうと、羽柴軍に
「堀際まで迎えの舟を出すように」
といった。羽柴軍は城を明け渡すことを条件に舟を差し出したが、日置・滝川・服部はその舟に弓や鉄砲を飾り、城中の男女ことごとくを載せて、数万の敵とにらみ合って尾張に引き取って行った。
珍しい開城のあり様である。…(←本当にこう書いてあるのです)」


正成、まるで一般に言う長篠の戦いのようなつるべ打ち戦術ですね!
配下に付けられた伊賀者は、このころには忍びというより鉄砲隊として活躍していたようです。

開城の仕方も、転んでもただでは起きない三河武士っぽい雰囲気を感じますが、ひょっとしたら日置(北畠氏家臣)や滝川(織田家家臣)に三河者服部正成が進言してこんなハッタリな引き方をしたのかもしれません。

※三河流撤退の一例→みかぶしトリビア「敵の城下町のまん中を大行進した三河武士がいる

それではおやすみなさいませ。
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by mikabushi | 2011-11-16 02:46 | 一日一服部

【伊賀越え3】

昨日はツイッター上で井伊さんと木俣さん、そして達夫さんのことでで話が弾んでしまったのでお休みしました<(_ _)>

今日も夜遅くになってしまいましたが、伊賀越えについて…。

先日発行した「列伝3」にて、正成が甲賀に言って多羅尾光俊と話をつけてきた云々という話をご紹介したのですが、あれはどうも信長の臣長谷川秀一が話をつけたという説の方がメジャーのようです…。

マンガを書く時参考にした某本(二冊くらいの本ににそういう記述があったので)に書いてあったのでそのまま描いたのですが、いざそれを証明する一次資料を探してみると現在手元にある史料の中に見つからないのです。

そんなわけでこの先見つかるかもしれないのですが、取りあえず保留にさせてください_| ̄|○。
今のところ正成の功績としては

「伊賀者たちに呼びかけて200人ほどの伊賀者に家康の護衛をさせたこと」

だけ

ということになります。…ごめんなさい。


ただ、この記述も「伊賀者由緒書」といういわば自分の家系を粉飾するための本から取られたものなので実はあやしい…。


「伊賀越え」に関して研究された方によると、

家康のために集まった200人というのは大げさな数字で、実際はもっと少なかったとか

伊賀越えの際、家康は伊賀者に峠まで送って行ってくれることを求めていたが、彼らは途中で引き返してしまったので(ひでえ)、実は家康は伊賀者にそれほど恩を感じていなかったとか

そんなわけで家康が大大名になったのちに家臣になった伊賀者たちに対しても「何をいまさら」といわんばかりに、足軽程度の最低の地位しか与えなかった

とか。


(以上の説は「伊賀史論叢」という本の「家康の伊賀越え危難考」という論文にありました。史料の細かい出典や論拠などはそちらををご覧ください)

…そんなわけで実際には正成の活躍はさほど大したことはなかったのでは、という見解を示す学者さんもいるようです。
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by mikabushi | 2011-11-15 03:22 | 一日一服部

【伊賀越え2】

「伊賀者由緒書」
実はさっき史料を漁っていたら、参考文献の中にこれの原文を引用した箇所があったので訳しながら載せてみますね。ははは知らなかったなー。


(タイトル)「(家康公が)伊賀者二百人へ御褒美をなされ、(伊賀者が)地方を拝領した覚え書き」

…天正10年5月29日、権現様和泉州堺ご遊覧として…(中略)…
お供のうち服部半蔵は伊勢の出身だったので、本多忠勝の依頼を受けて、伊賀路の郷導を引き受けた。

半蔵は家康一行より先に進んだ、
(正成の呼びかけによって)服部に従っている一族(←?原文だと「其従類」)である柘植三之丞、同市助、同甚八郎、山口甚助、富田弥兵衛、菊池豊前、柴田周防、福守定斎入道、山中覚兵衛、米地半助ら10余人、
またその他郷士どもがおいおい2~300人、(家康公のために)はせ参じた。

上柘植より三里半の間を「鹿伏兎(かぶと)」といい、ここは山深く険阻で昔から山賊の住処だったところをつつがなくご案内申し上げた。

家康公一行は鹿伏兎の役にお泊りになり、6日に伊勢白子の浜に無事にお着きになった。
この時供奉した大和、和泉、近江、伊勢の士(忍びなどの郷士)は解散することになったが、
家康からそのうち浜松に来れば褒美を与えるという旨を約束され、みんな感謝して帰郷した。

家康公はこれより舟で大浜にお着きになり、17日には熱田に出陣なさった。


…このとき召し抱えられた伊賀者(服部正成の部下になった)150人はこの年から大坂の陣まですべての戦に出陣たといいわれている。


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by mikabushi | 2011-11-13 00:41 | 一日一服部

【伊賀越え】

昨日つぶやいた分は削除しましたが、なかなか正成が義侠心あふれる兄貴っぽくて面白い話だったので(けんかっ早いお祭り野郎と言えなくもない話だが)、気になる人は学研M文庫の「服部半蔵と影の一族」をご参考ください。

服部正成の人生最大の見せ場「伊賀越え」ですが、例の「寛諸譜」の記述は至ってシンプルです。

「(天正)十年六月和泉の堺より伊賀路を渡御の時、従いたてまつり、伊賀は正成が本国たるにより、仰せをうけたまはりて郷導したてまつる。」


伊賀越えに関する史料は色々な本にあるようで、中でも正成の活躍は「伊賀者由緒書」という本(どこで閲覧できるかわからないので私はまだ見ていませんが)に詳しく載っているそうです。
ただ、これは自分ちの家系を粉飾して語った本でもあって真実かどうかは分からないとも言われています。

ただ、正成の活躍というよりも茶屋四郎次郎が大金をばらまいて土地の者たちを買収し、そのおかげで難なく越えられたという身もフタもない説もあるみたいですが…。

とにかく諸説さまざまで伊賀越えの研究だけで本が何冊もあるような状態なので私もやや混乱気味です…。(続く)
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by mikabushi | 2011-11-12 01:00 | 一日一服部

緊急避難

諸般の事情でツイッターでやっていた一日一服部をしばらくこちらで書かせていただきます。

今までの「一日一服部」はこちらのtwilogをご覧ください。

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伊賀者とは何の関係もないらしいけど伊賀八幡宮。
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by mikabushi | 2011-11-11 21:41 | 一日一服部