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第五回松平シンポジウムまとめ(要約)

第5回松平シンポジウムに行ってきました。
以下、聞き書きをまとめたもの。勘違いや聞き間違いもあるかもです。

平野明夫先生
・長沢松平以外の松平庶家は桶狭間以前ほとんど今川氏に属していた。
・長沢松平は今川によって長沢城を追われ浪人になったが桶狭間後に家康の下で復帰したらしい。
・大給松平は家康と敵対した後浪人し、許されて大給城に復帰したという文書がある。時期的に見て一向一揆に加担したのではないか。
・松平庶家は今川の直接の家臣として扱われており、今川も家康(岡崎松平家)を通さず文書を発給している。
・駿府に年始の挨拶に行く松平家も(完全に家臣)。当時は3月頃になっても正月の挨拶が行われていた。

山田邦明先生
・東三川の今川の拠点は吉田(大原)・牛久保(牧野)・田原(朝比奈)の三城。
・酒井忠次が一番頑張った。まず自分が地域の武士を説得・手懐ける→家康側につける。
・大塚城の岩瀬、父と子が敵対。父は家康側につくが子は今川を引き入れて父を殺す。しかしその後降伏してきた子を家康許す「若気のいたりということで許す。父上も尽くしてくれたし。」☚父の死は無駄になっていない。
・仁連木の戸田主殿助は吉田城(城将小原)に人質になっていた母を鎧櫃にいれて仁連木に帰る。
・家康、味方になってくれた戸田主殿助に大盤振る舞い。三千貫文与える。家康、20代半ばでまだ一生懸命。
・家康から忠次に与えた文書、すでに吉田城落城し境が城代になること前提で書いている。
・田原城は水軍で攻めた。本多豊後(広孝)が率いる。地域の百姓にも協力しろと言っている文書。
・田原城を落とす予定の本多広孝にすでに恩賞の話。領地とともに座王山もあげると言っている。<
・田原城を守っていた朝比奈、「土地が少ない」と訴えていた神社に対し「領主が代わっても次の人がやってくれるだろう」と書いている(悲しい史料…)
・吉田城が落城し浪人となった者にも同じ所領を与えてやってくれ、と大原肥前守は家康に頼んで開城した、ということを示す史料(いい人だった大原さん)
・数正はまだ判物を発給するのに言葉の使い方がわからず、書き直した形跡あり。初々しい。
・牧野は降伏するが、領地などはそのまま安堵。そのため開城後長沢松平に渡すはずだった土地を牧野に渡すことになったという文書がある。
・まず家臣に恩賞の土地を約束するが、敵が強くて交渉の末妥協して開城させた場合約束守れなくて家臣に謝るということよくあった。
・牧野と水野は近い関係だった。親戚だったかも。…牧野家中、主君亡き後のこと水野に頼む(それで牧野家中が安心する)。実は水野の勢力は知多半島だけではなかった。
・信元、資料が消された可能性もある。実際は資料に残っている数倍のことをしたのではないか。一向一揆は信元がいなければ収まらなかったと書いている資料もある。
・家康は極端なことをしないでじわじわと攻めるのがスタイル。力攻めをせずなんとかうまく諦めさせることが天才的にうまい。

谷口克広先生
・信長の同盟者と家臣の線引き難しい。
・ただ、家臣だったら安土城でもてなされたりはしない。まだ同盟者。家康は「家臣の直前でとどまった」のではないか。





…という感じでした。
最初掲載したものをかなり編集してまとめてありますが、詳しい講演内容はおそらく安城歴博から冊子になって後日発行されると思います(第3回のシンポジウムのは冊子化されてた)。

個人的には東三河攻略における酒井忠次の功績が非常に大きかったということと、水野信元の功績が今伝わっていることの数倍はあったのではないかというお話が興味深かったです。
by mikabushi | 2014-10-27 12:00 | 日記